境界線
先週末はクレマチスの丘へ。

目的は2つの写真展。
1つ目はIZU PHOTO MUSEUMの「時の宙づり―生と死のあわいで」。
色々な境界線が写真や行為に含まれていると思う。
被写体と撮る人、シャッターを切る前とその後。
この展示では後者のほうを強く感じた。
家族写真や遺影など、写真の歴史の中で見過ごされてきていたような、記録としての写真が飾られていた。残すための写真。ヴァナキュラー写真。解釈はいくつかあるようだけれど、芸術性を求めない記録写真のこと。
その写真の中では、写真を製作した者の手によって、被写体が、死んだ過去と現在の間に宙づりになっていいた。過去現在が矛盾して交錯するような。
ただただヴァナキュラー写真だったものがそれ以外の可能性をもつものとして飾られていた。
写真技術の変遷の勉強にもなった。
時代時代で人を生き生きとした状態で写真に残そうとしていたんだな、と思う。
そして、2つ目はヴァンジ彫刻庭園美術館の「古屋誠一郎展 Aus den Fugen」。
自殺してしまった妻クリスティーネを生前撮った写真。
時の経過とともにクリスティーネが心を病ませている様子がわかる。
ストレートでシンプルな構図の中の彼女の眼がすべてを語っているようだった。
でも、残されたその写真の中で彼女が生きているようだった。
生き生きとではなく、生々しく。
生温かくて、やさしい、暗さ。
写真はシャッターを切る瞬間に時系列的な境界線を引きつつも
形あるものとして残すことで、その前後を不覚にしているのかもしれないと思った。

春のクレマチスは色々な花が咲き誇っていて素敵でした。

目的は2つの写真展。
1つ目はIZU PHOTO MUSEUMの「時の宙づり―生と死のあわいで」。
色々な境界線が写真や行為に含まれていると思う。
被写体と撮る人、シャッターを切る前とその後。
この展示では後者のほうを強く感じた。
家族写真や遺影など、写真の歴史の中で見過ごされてきていたような、記録としての写真が飾られていた。残すための写真。ヴァナキュラー写真。解釈はいくつかあるようだけれど、芸術性を求めない記録写真のこと。
その写真の中では、写真を製作した者の手によって、被写体が、死んだ過去と現在の間に宙づりになっていいた。過去現在が矛盾して交錯するような。
ただただヴァナキュラー写真だったものがそれ以外の可能性をもつものとして飾られていた。
写真技術の変遷の勉強にもなった。
時代時代で人を生き生きとした状態で写真に残そうとしていたんだな、と思う。
そして、2つ目はヴァンジ彫刻庭園美術館の「古屋誠一郎展 Aus den Fugen」。
自殺してしまった妻クリスティーネを生前撮った写真。
時の経過とともにクリスティーネが心を病ませている様子がわかる。
ストレートでシンプルな構図の中の彼女の眼がすべてを語っているようだった。
でも、残されたその写真の中で彼女が生きているようだった。
生き生きとではなく、生々しく。
生温かくて、やさしい、暗さ。
写真はシャッターを切る瞬間に時系列的な境界線を引きつつも
形あるものとして残すことで、その前後を不覚にしているのかもしれないと思った。

春のクレマチスは色々な花が咲き誇っていて素敵でした。